人をいじめることについて考える

いじめをしてはいけない理由

「いじめ」は、学校や会社のちっちゃい社会で起こることというイメージがある。広い意味では、世界中のどこかで起こっている戦争も、国レベルでのいじめといえるかもしれない。

戦争は宗教による価値観の違いで起こっていることが多いことは周知のとおりだ。キリスト教は「神はイエスただおひとりである」。イスラム教は「アラーの他に神なし。ムハンマドはその使徒なり」。どちらも一神教で、ほかの神は認めないと主張している時点で衝突が起こるのは明らかだ。現在対立しているのが、アメリカとイスラム諸国だが、おそらくお互いの関係で折り合いがつくということはないだろう。

もうひとつ例をあげると、ヒンドゥー教のインドとイスラム教のパキスタンは仲が悪いことで知られている。昔、インドとパキスタンのあたりに「ムガル帝国」があった。この国はヒンドゥー教徒が人口のほとんどを占めていたが、厳格なイスラム教徒であるアウラングゼーブ帝が「イスラム教徒以外は人頭税(ジズヤ)を払いなさい」と、税金を多く取り立てた。このことがヒンドゥー教やそのほかの宗教の信者の強い反発を招いて、今に至る。

日本の場合は、多神教のために、平気で七夕を祭ると思えば、クリスマスを祝うことができる。国内でキリシタンを弾圧するなどの過去はあるし、今でも偏見はあるにしても、対外的に大きな宗教問題が生じてはいない。そのため、国際社会で果たす役割が大きいのである。

つまり、宗教的な価値観の違いから始まり、お互いの宗教を排斥しあった恨みの数々によって、都合のよさそうな言いがかりをつけては宣戦布告するようになってしまったのが現代の国際社会である。「あなたがいなければ私たちの思い通りになるのに」ということなのだ。

それは、われわれの身の回りにおきている「いじめ」という現象にもあてはまる。うるさい母親がいなければ自分はもっと楽にいられるのに、と思ってしまうことがあるだろう。その考えがエスカレートすると、いじめられる奴はいじめられてあたりまえだ、いじめは正義だと思うのである。

弱いものを苦しめたり、あるいは殺害したりして、自分が上に立ちたいということは、人間なら誰もが考えることだ。けれども、それが自分の将来にとってほんとうによいことなのだろうか。それを続けていれば充実した人生が送れるのだろうか。一度よく考えるべきだろう。

でも自分に関係のあるイヤなことを無視できない

国レベルであっても、イヤな相手とどうしても付き合わなければいけない場面は多い。お互いの考え方は異なっていても、外交の場面では握手を交わしているような場面が多々見られる。イヤな相手ならば無視してもよいというわけでもないのだ。

今のヨーロッパは、一つの川が複数の国を流れている。川の上流の国が環境のために川の水を浄化しようという政策を行ったとしても、下流の国がそんなことお構い無しに洗剤など流したら台無しになってしまう。そのために海が汚くなって、魚が取れないとなったら、利害関係の問題を生む。

下流の国がもし、自分の国と対立していたとしても、黙っているわけにはいかない。地中海で魚が取れなくなってしまえば、ヨーロッパ全体の問題に発展してしまうので、国外や国中の人にアピールして賛同者を増やすような政策をとる。

同様に、あなた自身がいじめを受けているとして、それがあなた自身だけの問題であることはまずない。他にもいじめをうけている人がいるかもしれないし、ひょっとしたらいじめている人自身が大きな悩みを抱えているかもしれない。だから自分以外の人にアピールしていく必要がある。仮に、誰も信じてくれなかったとしても、誰かに言ったということは、重要な証拠として残るので、勇気をもってほしい。

もちろん、第一に守るべきなのは、あなた自身の身を守るということだ。安心して過ごせる場所を求めるべきだ。居心地のいい環境、または、あえて苦しい環境を選ぶ権利もすべてあなたにある。この事に関して、大人や周りの人たちからもらうアドバイスを受けるかもしれないが、それは必ず正しいものとは限らず、その人自身の価値観での上の判断にしかならない自分が正しいと思ったことは、自分にとっては正しいのだと確信してかまわない。

誰かが敷いてくれたレールに乗ったまま人生を歩んでしまえば、自分の足跡がどこにあるのか見失ってしまう。それは一番よくないことだ。どんなに悩んだとしても、遠回りになったとしても、自分の足で人生をしっかり踏みしめることがベストな選択である。