学校では何を学ぶことができるか

そもそも学校に行くのはなぜか。

それは、人間の多様性を学ぶためである。

今、あなたの頭は自分のことで精一杯かもしれない。そんな時に、他人のことを意識しよう、といったって、なかなか難しいことかもしれない。カチンとくるかもしれない言い方でいえば、「自己中心」の考え方になっているということである。

「井戸の中の蛙大海を知らず」ということわざを一度は聞いたことがあるだろう。井戸の中で一番だからといって自己の研鑽を怠ると、大海に出たとたんに弱者に転落してしまうという意味である。自己中心でいると、他人を知らないから、自分より優れている人のことも知らず、また極悪な人のことも知らない。それでは自分の身を守ることができないのだ。

そこで、学校である。人間観察をするのにもってこいだ。人と自分を比較しながら、自分を客観視していくことで心が成長する。学校に行かなくても勉強はできる!というのは半分あってて半分まちがいだろう。学校以外にも自由に過ごせる場所があって、そこで人間関係も学べるし、勉強もできることには間違いないが、人間の多様性は学校社会に劣る。

世の中にはいろいろな学校があるが、なるべく多くの人と交わることのできる学校がよい。多様な価値観に触れれば触れるほど、得られる刺激も大きいものになるはずだ。

社会の不条理から学ぶ

学校で主に学ぶべきことは「社会の不条理」である。法律で、自分にとっては正義であることが処罰の対象になっている。米国で使われている薬が、日本では規制されており使うことができないというのがいい例だ。

身近なものとしては、生活指導部がスカートの長さや髪の色についていちいち注意してくることだろう。それなりの理由はもちろんあって、戦時中の統制の中で、ぜいたくをしてはいけないということからはじまった。パーマは敵国の文化だからとして学校だけではなく社会で禁止された。

ここ最近は、国際化の煽りを受けて、少しずつ変化しつつある。理不尽な校則や規則は、まさしく日本の社会の鏡であり、社会の問題点を見出すことだできるだろう。

さらに、ルールを守るということだけで、自分の身を守れるわけではない。善人でも、うっかり、わき見をした瞬間に車で人を跳ねてしまう。ルールを守り続けたおかげで企業の経営が破綻しかねない状況に追われることもある。濡れ衣をかぶせられてしまうこともある。

学校社会では、全部のことを経験できるはずだ。ちょっとした一言でいじめが発生したり、校則を厳格に守り続けていたら逆に世間知らずになったり、根も葉もない悪口をいわれたりする。

それは、社会に出ても避けては通れないことだ。ルールと現実のはざまに立ってしまったときに、自分がどのような考え方を持って行動するべきかということを学んでおく必要もある。

まとめれば、学校でよく見られる社会の不条理は、現代日本を映す鏡であり、そこから自分はどのような生き方をしていくべきなのかを学ぶことができるのである。なお、ここでは、学校社会から学べることについて論じた。

法律と社会の秩序がある理由

最後に、法律や社会の秩序がある理由について考えてみたい。日本は中国の文明に影響を受けた国で「儒教」の影響が今でも残っている。

儒家の孔子が提唱した儒教は、春秋戦国時代の世の乱れで「なんでこんなに世の中乱れるんだろう」という命題から生まれたものだ。古典の教科書に出てくる「論語」は、孔子の弟子が書いたものである。

たとえば、家族というものには秩序がある。だからこどもは親に敬愛の心をもって接しなければいけないという教えは、家族や周りの人に迷惑を掛けずに済むように世間体を気にすることに見られる。

孔子の教えを発展させたのが、法家の荀子で、性悪説を唱えはじめた。人間は人を思いやる善をもって生まれてこないのだから王は国民を教育しなければならない。この思想を秦という国が採用し、「法を定めて人民に守らせる。もし守らなかったら厳しく罰する」といって、富国強兵に成功した。それが法律のはじまりであるらしい。

つまり、いま見られる日本の法律と社会の秩序は、古代中国に起源しているので、家族を中心とする文化は儒教によるものであり、法律は国を強くするためのものであると理解してよいだろう。

ちなみに、ヨーロッパのほうで最も古い法律は「ハムラビ法典」で、「目には目を、歯には歯を」という言葉で有名だ。今日本では欧米の法律をどんどん取り入れているが、根本的な考え方が異なることに注意しなければならない。